成蹊大学文化会手帖

文化会のあれこれ

<混声合唱団> 第51回定期演奏会

<この記事のポイント>

  • 現代音楽中心の演奏会。スリリングで十二分な聴きごたえ。
  • 作曲者本人による楽曲解説付き。「現代音楽」の敷居がより低く!
  • 古典に留まらない、合唱形式の表現力の幅広さを実感。

 


成蹊大学混声合唱団の第51回定期演奏会に行ってきました!

場所はトッパンホール。飯田橋駅から少し歩いたところにあります。吉祥寺駅から飯田橋駅は約25分です。中央総武線で一本。

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今回は場内写真撮影禁止ということで、会場前の写真のみとなってしまいますが、ご了承ください。

 

同合唱団は、日本の大学では珍しい、現代音楽を演奏する合唱団であるということで、どんな新しい経験が待っているのであろうと僕はこの日を楽しみにしていました。
ですが、楽しみであると同時に、不安でもありました。なぜなら、「現代音楽」って、すこし難しいのではないか…、音楽知識もなければ文脈も知らないこの素人が楽しめるのだろうか…と思っていたからです。
しかし実際足を運んでみるとどうでしょう。やはりライブで聴く音楽には録音音源よりも伝わるものがあるような気がしますし、作曲者本人による丁寧な作品解説も大変わかりやすいです。そんなこんなで、私の不安は一曲目から払拭されたのでした。

 

<第一部>無伴奏混声合唱曲集「レモンイエローの夏」
演奏会といえば演奏者達が服装をシックなドレスまたはスーツで統一しているというのがよく見られる光景ですが、まずここから裏切ってきます。舞台上に登場した演奏者の服装のカラフルさ、カジュアルさたるや。
そして始まったのは表題曲「レモンイエローの夏」。タイトル通り、爽やかでポップな曲。合唱曲というよりは、J-POPの雰囲気すら漂わせるその作品は、いきなり「合唱」という表現の幅広さを理解させてくれます。入り口で配布される歌詞カードとともに詞を味わうこともできます。続いて、「国境線」。国境線が持つ歴史、生み出してきたドラマなど、その言葉が想起させるイメージが幾重にも重なり壮大な作品となっていました。

 

<第二部>「ナンセンス感覚」「なんたるナンセンス!」
歌詞カードを覗くとそこには矛盾に満ちた歌詞がずらり。ついに、いわゆる「現代音楽」的な難解な作品が来るのかと身構えていたところ、作者が壇上へ。時折人々が抱く、「何が普通で、何が異常か?何が『意味』で、何が『無意味』か?」という問い。これは特別高尚なものではなく、誰もが抱く問いです。作者曰く、そのふとした思考が日常の延長線上にあることを意識して作曲したとのことでした。
これは私にとって、極めて衝撃的な作品でした。
例えば電子音楽などでは、同じフレーズが反復され続けること、音の高さが滑らかに変化すること、音に一定のエフェクトが掛けられるなんてことはよくありますが、これらの楽曲(とくに「ナンセンス感覚」)では、人間が生身の声でそれと同様の行為を行っていました。各パートがバラバラの言語で、バラバラの服装で、バラバラの歌詞、しかも意味のない歌詞を歌っている…しかしながら全体としては調和している。 これは極めてスリリングな体験でした。
「なんたるナンセンス!」はいわゆる「合唱曲」な定番風メロディに「ナンセンス」な歌詞をのせるという作品。こちらもまた、センスとナンセンスの関係について、考えさせる作品であったと言えます。

 

<中間休憩>
ここで15分の中間休憩。会場は第二部の作品についてざわめいていました。後にも重厚なテーマの作品が続きましたが、わたしはこの「ナンセンス」二曲が最も緊張感があったと記憶しています。意味に満ちたこの世界で、無意味は極めて異常であり、目を背けていたものであるからです。そして演奏後、このように、お互いに解釈や感想を述べ合うことで、無意味であるものに意味をつけようとしているこの行為自体が、また無意味への恐れの表出であると言えたのではないでしょうか。

 

<第三部>「千年のウズラ」
第三部では様子がガラッと変わり、合唱団全員が黒色に身を包み、ピアノ伴奏も登場。
この曲は、藤原俊成「夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉(ウズラ)鳴くなり 深草の里」という900年以上前の作品を中心に展開する作品。平安貴族はウズラの鳴き声にどんな趣を感じたのか?そして、その趣は現代人に通用するか? どのようにして日本人の「ウズラ」は変化してきたか?これらを重厚に歌い上げる作品。ウズラの鳴き声が様々に表現される、「合唱」の常識が変わってしまう一曲でした。

 

<第四部>「地上の祈り ~pacem in terris~ op.150」
そして演奏会の最後を締めくくったのは、混声合唱団らしい「ミサ曲」。しかし、成蹊大学混声合唱団はただでは終わりません。作曲者曰く、従来の形でミサ曲を演奏するには、世界の宗教にまつわる状況があまりにも変わりすぎてしまったために、ただ美しさや神々しさを求めるのではなく、今、神はどのように祈られているのか…というムードを曲に反映させる必要があったとのこと。恨みに満ちているかのような低いつぶやき、悲劇的な雰囲気漂う高音、低音と高音が響き渡る伴奏。これらが重なり合い、極限状態における「祈り」が、生々しく、おどろおどろしいまでに表現された一曲でした。
息が続くギリギリまで、か細い声を限界まで出し切ることで演奏を終えた衝撃的な作品を最後に、演奏会は幕を閉じました。

 

 

(筆者から)
小中高で慣れ親しんできたものとは似て非なる、実験的演奏方法、曲、詩…。文化会団体内ではもちろん、体育会系の試合をも凌駕しうるスリリングさがここにはあります。過去を踏まえ、現代に立ち向かう…これは多くの大学生の使命でもありましょう。ですがそれは決して簡単ではなく、最先端を歩く辛さというものは計り知れないかもしれません。しかし、時代を切り拓く者としての自負を、芸術活動を通して育むという貴重な経験を混声合唱団員は手にしていると思います。

 

(文責:佐藤)